千歳烏山の野菜王、下山を知っているか(後編)

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前回に引き続き、下山千歳白菜発祥の地、北九丁目屋敷林では知りえない、白菜物語をご紹介。

 

まだ見てない方は、ぜひこちらもご覧いただけますと幸いです。

>>千歳烏山の野菜王、下山を知っているか(前編)

 

 

下山千歳白菜5

 

◎登場人物

下山義雄…1913年(大正2年)、当時の千歳村(現千歳烏山周辺)に生まれる。関東大震災の5年後である1928年(昭和3年)に就農。下山千歳白菜の生みの親。本物語の主人公。

 

馬越のダンナ…種苗会社社長。下山の白菜の評判を聞きつけ視察に訪れたことで下山と邂逅を果たす。以後、事あるごとに下山に知恵と力を貸し、利益を得ていく。

 

 

◎覇王、下山

年が明けた1953年の1月、下山の白菜に対して審議に審議を重ねた審議会が下した忖度抜きの結論は、「登録の価値あり」であった。

 

ただし、ここでも条件が一つ。

種苗連合会が発行する『果実の日本』誌上に掲載して90日以内に第三者の異議がないときにはじめて確定するということだったのである。

ここまで試練を与えるとは、野菜の神様はつくづく無慈悲である。

 

官報に下山の「千歳白菜」の件が掲載されると、すぐに関東近郊の種苗会社が押しかけてきた。

目を血走らせ、欲の皮が突っ張った分厚い顔面から発せられる言葉の多くは次のようなものだった。

「我々にも販売の権利と、採種の権利の一部を出してほしい。認められなければ異議の申し立てをする」

 

いわゆる、恫喝である。

 

しかし、下山はクレバーな男だ。

登録までの経緯を説明し、すでに販売と採種の権利の一部を馬越種苗に出してあることを伝えた。

種苗会社同士でよく話し合い、時に拳で語り合い、時に実弾で頬を引っ叩きあってくれ、と毅然とした態度をとったという。

持ち前のエネルギー量の高さに老獪さも身にまとった下山。戦争経験と戦後の混乱の世が、彼を真の実業家に変えたのだ。多分。

 

馬越のダンナの暗躍もあったのだろう。結局、異議の申し立てはされずに1953年(昭和28年)7月25日付で千歳白菜の新種登録が決定した(登録番号第65号)。ちなみに7月25日は僕の姉の誕生日でもある。

 

◎白菜バブルとその終焉

無事に新種登録が済んだと思ったのも束の間、下山は予期せぬことでつまづいた。

 

新種登録申請の書類は特許庁に送達されたが、特許庁は「千歳白菜」の「千歳」という名称はすでに北海道の「千歳澱粉」で使用されているため、他の名称に変更せよと伝えてきたのだ。

 

しかし馬越のダンナは、すでに「新種で耐病性のある千歳白菜」の名称で関東一円に宣伝を打っていた。

 

そのため何とか「千歳」の名称を残したいと強い要望があり、いわゆる大人パワーの発動もあり、「下山千歳白菜」という名称での登録がゴリ押しで認められた。

 

このあたり、ウィキなんとかにはさらりと書かれているが、日程的なプレッシャーも大きく、坊や哲ばりのひりつくギャンブルもあったと僕は見ています。

 

かくして、下山千歳白菜の種子の販売権は、自身と千歳農業協同組合、そして馬越種苗などが持つことになった。

 

しかし、この段階で「千歳白菜」の名称について問題が発生した。近所の農家がこぞって白菜の種子を採種し「千歳白菜」の名称で販売し始めた。

これぞヒューマンビーイング!!

美しくもおぞましい便乗商法が繰り広げられたそうです。

 

それに対抗するべく下山は馬越のダンナに相談。

当時は枡で量って種子販売をするのが主流だったようですが、1合・5勺・1勺の3種類の絵袋入りのみで販売することを決めたという。現在も野菜の種は袋に入れられて販売されていますが、おそらくその魁!でしょう。

 

いやはや、この男の商才は昨今見つかったブラックホールに通じるものがある。全てを併呑してなお、下山は下山なのだと恐ろしくなります。

 

下山千歳白菜6

 

下山千歳白菜の登録期間は5年。また、いくら連作に強いとはいえ、下山千歳白菜は年々品質や生産量がともに低下していったそう。

 

衰退に拍車をかけたのは、核家族化だった。通常の白菜よりも巨大なサイズが時代の変化とともに仇となり、需要も減ったのだそう。

 

 

下山は馬越のダンナに原種を渡して栽培と採種を委ね、その後は1959年(昭和34年)から2年間、人参の栽培に取り組んだ。

 

この人参も出来の良いものであったが、大きすぎて時代に合わないと言われたため、新種としての登録申請は認められなかったそう。

 

さらに、1962年(昭和37年)頃からはキャベツやレタスの栽培も手掛けたが、昭和40年代に入ると農業だけでは生活が立ち行かなくなり、土地の売却やアパート経営などに軸足を移した。

 

かくして下巨大野菜に彩られた下山の農家人生は終焉する。

なんとも後味が微妙な顛末となったのです。

 

下山千歳白菜7

 

◎余生

時代は一気に進み、1998年(平成10年)。

85歳になった下山は、地元の財団法人と契約し、屋敷林の一部を市民緑地「北烏山九丁目屋敷林市民緑地」として開放した。

 

冒頭の記念碑は、下山が発表した『バイラスにかからない白菜の作り方』のスライド制作を手がけた盟友、植松敬の撰文、揮毫は大場啓二(当時の世田谷区長)によるものであるそう。

 

そうしたことと前後して、長らく栽培の途絶えていた下山千歳白菜が、なんと復活。

 

「北烏山九丁目屋敷林市民緑地」の契約締結と同じ頃に発足した、地域団体が下山千歳白菜の存在を知り、レジェンド下山に再度の栽培を依頼してのことだった。

 

すでに下山の手元に種子は残っていなかったものの、耐病性品種界のビッグダディ、またはサンデーサイレンスである下山千歳白菜に敬意を表し、協和種苗(旧・馬越種苗)に100粒の種子が残されていた。

 

早速、下山はその種子を使って栽培を試み、約40年ぶりに下山千歳白菜が収穫されたのであった。

 

下山は自身が世に送り出しつつも、時代に翻弄され消えていった下山千歳白菜の復活を見届け、2000年(平成12年)に『農に生きる-白菜育成にかけたわが人生』を私家版として出版したのを最後に、約90年にわたる今生での役割を果たし、天に召された。

 

後日談となるが、下山千歳白菜は、偉大なる下山の死後、嫡子に引き継がれた。嫡子は2002年(平成14年)に出版社を退職して父の意志を継いだのだ。

 

その彼が言うには、下山自身は復活した下山千歳白菜について「同じではない」と最期まで言い続けていたという。

この情熱、このこだわりこそが下山よ。

下山千歳白菜8

 

いやしかし、こんな重厚なエピソードがありながら、まったく主張がないあたりが千歳烏山なんでしょうね。

こんなの、かつて週刊少年マガジンでちょくちょく掲載された伝記漫画にできるレベルだと素直に思います。講談社さん、ぜひ!

下山千歳白菜9

屋敷林の契約は平成50年まで!

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