千歳烏山の野菜王、下山を知っているか(前編)

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最近、なかなか言葉を思い出せず、すぐにアレって言っちゃうことが増えてきたわけで。

 

まぁ、でも皆さんも大概使いますよね。

今晩のためにちょっと白いアレ買ってきて!とか、ね。ちょっと前まで話題になってましたから。

それはさておき、アレって言えてるうちは頭の中にきっと映像が浮かんでいると思うのでまだいいんですが、それもなくなるとちょっと大変です。

 

千歳烏山ってなんとか発祥の地だっていうのは覚えてるんだけど、そのなんとか自体がなんとも思い出せない……

 

そんな曖昧な過去と決別するために、僕は北烏山九丁目屋敷林に行ってきました。バス停にもなっていながら、僕の周りでは話題に上がったことがない激シブな場所です。

 

下山千歳白菜1

入り口はこんな感じ。巷間話題に上がるセレブな世田谷イメージとは一線を画す圧倒的な長閑さに癒やされる人も多いんじゃないでしょうか。

 

ここまで来てもアレのことは思い出せなかったんですが、ちょっと進むとその答えが、あっさりありました。

 

そう、千歳烏山は「白いアレ」こと白菜、それも、下山千歳白菜発祥の地だったのです!!!

 

下山千歳白菜2

・・・

おい待て、「下山千歳」ってなんぞや…?

そう思った僕は辺りをくまなく調べてみました。

日本の固有種野菜だけを集めた>>こんなサイトも見てみましたが、ちょっと見当たらないので、みんな大好きウィキなんとかに頼ることにしました。

 

ここからは北烏山九丁目屋敷林の光景を交えながら、白菜をひと皮ひと皮めくるように壮大な物語を紡いでいきたいと思います。

 

下山千歳白菜3

 

◎登場人物

下山義雄…1913年(大正2年)、当時の千歳村(現千歳烏山周辺)に生まれる。関東大震災の5年後である1928年(昭和3年)に就農。下山千歳白菜の生みの親。本物語の主人公。

 

馬越のダンナ…種苗会社社長。下山の白菜の評判を聞きつけ視察に訪れたことで下山と邂逅を果たす。以後、事あるごとに下山に知恵と力を貸し、利益を得ていく。

 

坊や哲…本名、阿佐田哲也(架空の人物)。雀聖と呼ばれた男(架空の人物)。下山とは真逆の人生を歩み、裏稼業で同時代を凌いだ伝説の麻雀打ち(架空の人物)。生野菜は苦手。

 

 

◎千歳村の野菜王、爆誕

千歳村の篤農である下山家では1930年(昭和5年)頃から白菜の栽培を始め、1935年(昭和10年)頃になると、稼業として収入を得るまでになった。

 

下山家で育てていたのは、「芝罘(チーフー)」種と「包頭(ほうとう)」種を掛け合わせた独自品種で、耐病性に優れるだけでなく、当時流通していた白菜の2~3倍の大きさであったという。

 

下山は20歳前後で父と協力して新品種を開発し、希望者には種子を分けていたというのだから、そのハイスペック男子ぶりにはぐうの音も出ない。

 

◎白菜、闇の時代へ

太平洋戦争開戦直前の1940年(昭和15年)頃から、白菜は「ぜいたく品」とみなされ、少しずつ栽培面積を減らさざるを得なくなった。

さらに、戦争に突入すると農薬も化学肥料も手に入りにくくなり、下山が30歳になる1943年(昭和18年)頃には野菜は「闇」でのみ取引されるものとなってしまった。

 

それでも下山は作り続けた。父とともにこの世に生み出した白菜を。耐病性に優れた株の交配と栽培、及び採種を愚直にも続けたのだ。

 

 

◎地獄から戻りし男の快進撃

そんな下山の元にもついに赤紙が届く。1944年(昭和19年)5月に召集され、ビルマ戦線に従軍することになったのだ。

折しも、現代では「史上最悪の作戦」と評されるインパール作戦が進行していた激戦地へ、である。

そこでどんな壮絶な体験をしたかは我々の知り得るところではないが、1946年(昭和21年)5月に復員した下山が再び農業をすることができるようになるまで、3年の月日を要したという。

 

白菜づくりを再び始められるようになったとき、日本はGHQの占領下にあった。当時、ノミやシラミがたくさんいたため、ヘリコプターでの薬品散布が行われており、畑には害虫はおろか、農作物にとっての益虫であるハチも蝶もいなかった。

しかし、1949年と1950年は全体的に白菜の出来が非常によく、収穫も多かったそうだ。その反動か、1951年と1952年は関東地方に白菜の病気が蔓延。多くの白菜農家が苦境に立たされた。

しかし、ある農家の生み出した白菜だけは病気発生率が1%程度に留まったという。

 

「ある農家」とは、そう。お察しの通り、千歳村(現・千歳烏山)の下山家である。

 

下山は完成させていたのだ。のちに語り継がれし、伝説の白菜を……

 

 

閑話休題。

 

さて、下山が戦火に身を投じた1944年、1人の男が彼の戦いに身を投じる決意を固める。阿佐田哲也15歳。後に雀聖と呼ばれる少年は空襲で焼け出されたことをきっかけに、博徒としての道を歩み始める。

男は生きていくため、博打の腕を磨いた。横須賀の米軍基地にも出入りするようになり、命の危険も顧みずに賭け狂った。将校を相手取っても銃を突きつけられても怯まず、負けなしとなった。

 

下山が復員した1946年、哲也は新宿にいた。現在、千歳烏山と新宿は電車で15分である。哲也は房州という通り名の博徒に師事し、新宿で名を馳せるコンビとなった。

しかし、その関係は長く続かず、師が新宿を去る。新宿に残った哲也は勝負を重ね、半年もすると黒シャツをトレードマークにする坊や哲という通り名を得た。ダークヒーローの誕生である。

 

翌年から坊や哲は、時に相棒を得ながら強者を求めて全国津々浦々を旅し、5年余り新宿を離れることになるのだが、下山が体調を回復させる間、2人は顔を合わせていたかもしれない。時代に導かれし人間同士は磁石のように引かれ合うものなのだ(阿佐田哲也は架空の人物です)。

 

下山千歳白菜4

 

◎波乱万丈!新種登録に至るまで

1951年(昭和26年)1月、農業雑誌の編集長と馬越種苗の社長が連れだって下山の白菜を見に来た。連作によって白菜の株が腐ってしまう軟腐病やウイルス病に対して耐性があることに着目してのことだった。

 

実物を見た2人は、新種として登録申請してはどうかと下山に持ちかけた。東京都の技師や農業のオーソリティに力を借りることで、下山は1952年(昭和27年)1月、ついに新種としての登録を出願したのだった。

 

審査にあたり農林省農政局特産課が下山に課した条件は以下の2つ。

一、白菜の種子60ミリリットルの送付

一、一畝以上の白菜を生荷用として栽培しておくこと

 

同年11月中旬に審査が始まったのだが、後に下山は「後にも先にもこの年ほど素晴らしい白菜ができたことはありませんでした」と自信に満ちた回想したとかしないとか。

つくづく「持っている」男なのである。

 

その言葉を裏付けるかのように、審査に立ち会ったご歴々は下山の白菜の出来を激賞し、白菜の作り方の説明を求めた。

下山は、父と作り上げた白菜を20年にわたり磨き続けた成果を説明した。

しかし、審査員は説明の内容と実際の白菜に差があることを指摘。にわかに雲行きが怪しくなる。

 

下山が新種登録を諦めかけた矢先、審査員から追試的なことをしないかと連絡が入った。学生を50名連れて行くので、白菜を100株並べていておいてほしいという要望だった。

 

審査員は学生たちを引率して千歳村(現・千歳烏山)へ押しかけ、すべての白菜の重量を1株ずつ測定した。

白菜の平均重量は、3.8kgだった。イギリスでは平均サイズといわれるようだが、日本でそんな赤ちゃんが生まれたら十分に巨大児といえる重さである。

測定を終えた審査員は、学生たちに「新種として充分の価値あり、新種登録になります」と説明したのであった。

一時はどうなるかと思ったけど、よかったね!

 

 

閑話休題。

 

一方、全国の強者との戦いで腕を磨いた黒シャツこと坊や哲は、宿命のライバルであるドサ健を打倒するために、この頃、新宿に戻る。

旅打ちにより己の限界を超えた坊や哲が初戦を制したものの、命を抵当にタネ銭400万円をそろえ、ドサ健は背水の陣で再戦に臨む。2回戦は起死回生の国士無双でドサ健が勝利を手中に収めた。

敗れた坊や哲はタネ銭を工面するため、行きつけのバーのママを売り飛ばして800万円を用意。ドサ健に最終決戦を申し出た。

 

二人の最後の勝負。

 

イカサマのできない状況にもかかわらず、坊や哲は配牌でダブル役満をテンパイ。しかし、上がり牌は全てドサ健の手中というひりつく展開。

 

手詰まりを察知した坊や哲とドサ健は手を作りなおし、偶然にも二人は同じ役満の「大車輪」でテンパイする。

 

残りのアガリ牌は1つ。

 

互いに最後のツモ番。

 

そんな極限の状況を制したのは、やはり坊や哲だった。

 

かくして坊や哲の勝負師としての戦いは終わり、引退後は小説家としての人生をスタートさせたそうです(あくまでも架空の人物)。

 

と、今回はここまで。

鍋を囲みながら白菜美味しいね〜なんて呑気に言ってる場合じゃありませんでした。

 

次回、下山にさらなる試練が降りかかります。

どうする下山!どうなる白菜!!

後編もお楽しみに!!

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