5分でわかる!? これだけは押さえておきたい基礎知識【蘆花恒春園】〝徳冨蘆花〟篇
【蘆花恒春園】の第3弾。
いよいよ〝徳冨蘆花〟篇です。
徳冨蘆花。
ボクももちろん名前くらいは知っていましたが、実際に何をしたどんな人だったのかと言われると、正直すらすらと答えることができません。
皆さんはどうですか?
【蘆花恒春園】(このサイトではここまで芦花公園で統一していましたが、今回はあえてこう呼びます)は、徳冨蘆花の没後に愛子夫人が当時の東京市に寄贈した敷地を活用して作られた公園。
蘆花が晩年を過ごした住居や二人が眠るお墓もこの中にあります。
なのでもしここを訪れるなら、事前に多少の予備知識があった方がより有意義な時間を過ごせるのではないかと思い、今回は最低限これだけは押さえておきたい〝徳冨蘆花に関する基礎知識〟をまとめてみました。
そしてその後、一般公開されている蘆花の住居とお墓の様子も併せてご紹介しますので、今回はちょっと長くなってしまいそうですが、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
徳冨蘆花に関する基礎知識その1
「富」ではなく「冨」 |
本名は、徳富健次郎(とくとみ けんじろう)。徳「富」なんですが、ペンネームは徳「冨」で、ご本人、この表記にとてもこだわっていたそうです。
また、17歳の時にキリスト教徒となり(1891年に決別)、「徳冨蘆花」と名乗るように。その由来は「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」。
では「蘆」とは一体何でしょう?
「蘆」は「あし」と読み、見た目はススキのようなイネ科の植物です。ちなみに日よけなどに使う「よしず」はこの植物で作られていますが、「あし =悪し」に通ずることから「よし」と読み替えて「よしず」。
面白いですよね。
尚、蛇足かもしれませんが「蘆」、の略字が「芦」。
【蘆花恒春園】も「芦花公園」と表記されることが多々あります。
ただ、ですね。
徳冨蘆花の生地は現在の熊本県葦北郡なのですが、ここに「葦」という字が出てきます。
この字も「蘆」と同じ植物を表す漢字ですので、もしかしたら「蘆花」という名前の由来の一つなのではないかと、これはボク、からすけの新説です。
もちろん、真偽のほどは定かではありませんが…。
その他名前に関して特筆すべきは、明治39年に「徳冨蘆花」という号を廃して「徳冨健次郎」と名乗るようになったことでしょうか。
この年には単身でパレスチナを経てロシアにトルストイを訪ねたりもしているんですが、どうも前年に愛子婦人との富士登山中に人事不省になったらしく、その体験が彼の人生観に何か大きな影響を与えたのかもしれません。
尚、お兄さんの徳富 蘇峰(とくとみ そほう)も有名なジャーナリストです。
本筋から外れるので今回は詳しくお伝えしませんが、蘆花がトルストイに会いに行けたのはこの蘇峰のつてであったのではないかと推測できます。
徳冨蘆花に関する基礎知識その2
代表作は「不如帰」 |
明治元年生まれの徳冨蘆花は、明治時代から大正時代にかけて活躍した作家です。
二葉亭四迷の小説「浮雲」に感銘を受け、以降、教師、校正、翻訳などの仕事をしながら伝記や紀行文などを発表、その後小説家として成功しました。
代表作は、明治31年11月から翌5月まで『国民新聞』に連載された小説「不如帰」。
明治33年に全面改稿されて出版、何と刊行後30年で185万部を売り上げたという大ベストセラーです。
このタイトル、最初に新聞発表された時点では「ほととぎす」というふりがなが振られており、現在までこの読み方が通例とのことですが、明治42年の百版の序文ではなぜか蘆花自身が「ふじょき」とカッコ書きをしています。
さて、本当はどちらなんでしょうね。
ここで、個人的な感想を一つ。
この小説に限りませんが、この時代の作品を読むと、つくづく「人類の寿命は短期間でずいぶんと延びたんだなあ…」と思います。
何しろ作中に「歳の頃五十の老婆」とか「十七、八歳の婦人」というような表現がちょくちょく出てきますからね、わずか100年ちょっと前の話ですよ、なのに50歳で老婆とは、いかに当時の人たちの寿命が短かったのか、そしてここ百数十年でいかにその寿命が延びたのか、もう、ただただ驚くばかりですよね。
ともあれ、興味がある方は下記サイトに会員登録をすれば無料で読めますので、ご参考までに。
電子書籍ストア「bookLive」
徳冨蘆花に関する基礎知識その3
晩年は粕谷で20年暮らし、昭和2年没。 |
原田愛子さんと結婚したのは明治27年、蘆花27歳の時です。
以降昭和2年に心臓発作で亡くなるまで添い遂げたのですから、きっとおしどり夫婦だったのでしょうが、そもそもは兄同士が知り合い、というご縁だったとのこと。
さらには、二人の間に実子はなく、明治41年に兄・蘇峰の末子・鶴子を養子にしています。
こうしてみると、蘆花の人生はその節目節目で蘇峰の影響を大きく受けている様子。 ところが蘆花は、明治36年に思想の違いから蘇峰と絶縁状態となり、大正2年に再会するも、翌年には実父の葬儀にも出席せず、鶴子も蘇峰のもとに帰して親族との一切の交流を断ったといいます。
いろいろとお世話になったお兄さんといえども、絶対に譲れない主張があったということでしょうか。
そんな蘆花が粕谷に越してきたのは蘇峰と絶縁する少し前、明治40年のこと。
以降亡くなるまでの20年間、この地でトルストイの影響による晴耕雨読の半農生活を送りつつ、「徳冨健次郎」の名で執筆活動も続けました。
中でも短文集『みみずのたはこと』(こちらも「bookLive」で無料で読めます)は、11年間で108版10万余部を重ねるロングセラーに。
また、愛子婦人との共著もいくつか発表しています。
蘆花の命日は、昭和2年9月18日。
生まれ年から計算すると享年59ですが、臨終の床では駆けつけた兄や鶴子とも再会できたとのこと、最期には和解できたのでしょうか…。
ということで、非常にざっくりでしたが、徳冨蘆花の基礎知識はここまで。
ここからは、いよいよ【蘆花恒春園】に現存する蘆花が晩年を過ごした家と、妻・愛子さんとともに眠るお墓をご紹介しましょう。
ここが入口。
【蘆花恒春園】の北西エリアです。
夕暮れの逆光のおかげで、なかなかにドラマチックな写真になりました。
蘆花自身が大正7年に「恒春園」と命名した自宅。
中を無料で見学できるのですが、写真撮影は禁止なので、言葉だけで様子をお伝えすると…
上の写真の母屋と、「梅花書屋」「秋水書院」の3つの建物が渡り廊下でつながっています。
ただ、いずれも100年以上はゆうに経っている建物ですから、どんなに静かに歩いても窓ガラスがガタピシ…。
一方で、古い木材と埃の匂いに、不思議と落ち着く自分がいました。
五右衛門風呂や囲炉裏、裏庭には井戸もあって、屋根は藁葺き。
こんな貴重な建造物を自由に見学できるなんて、ちょっと得した気分でしたよ。
でも当時、蘆花自身はこの家をあまり気に入ってなかったようですね。
こんな立て札がありました。
そしてお隣には、蘆花の没後に愛子婦人が暮らした家も。
蘆花の土地・建物・遺品等をすべて東京市に寄贈した愛子さんのために、市が建てたものだそうです。
とはいえ、どうも近くにあったゴミ集積場の悪臭に耐えられず、愛子婦人はここには2年も住んでいなかったとのこと。
三鷹台に引っ越し、その後熱海に移って昭和22年に亡くなり、遺骨となってまたこの地に帰ってきました。
その愛子婦人と蘆花が仲良く眠るお墓が、こちら。
自然石に刻まれた墓碑銘は、臨終間際に再会した兄の徳富蘇峰によって刻まれたものなのだそうです。
なんだか、しみじみしてしまいますね。
そうそう、愛子婦人の居宅の隣には、蘆花の身辺具、作品、原稿、手紙、農工具などの遺品を収めた「蘆花記念館」もあるんですが、当日ボクは時間切れで行けませんでした。
こちらも一般公開されているようなので、次回はぜひのぞいてみたいと思います。
さて、3回に分けてお届けした【蘆花恒春園】レポートも今回で終了ですが、ここは本当に、見所・楽しみどころが盛りだくさんの素晴らしい公園です。
よろしければ前2回の記事もご参考に、皆さんも時々遊びに行ってくださいね。